2016年4月18日月曜日

戦争体験(1)   昭和20年、四国、徳島県への空襲ーその②

  *木漏れ日さんの徳島での戦争体験その②です。原爆投下と終戦直後の様子です。
          
           「原爆投下と敗戦」     

 昭和20年 日本全国の大都市は言うに及ばず,中都市も爆撃されて、壊滅的な損害を受けていた。軍需産業のある工場近辺なども、爆撃されて大きな被害を被った。 

 人々は、日本は戦争に負けるかも知れないと思い始めたと思う。

8月6日<広島に大型爆弾>が投下された。

テレビの無い時代。あのおおきい「きのこ雲」はどこで知ったのか記憶にはない。大きい破壊力と,残忍とも言える殺傷能力をまえにして、時の為政者は戦闘続行は不可能と考えたか?

 3日後には、長崎にも同様の爆弾が投下された。そして運命の8月14日を迎える。明日8月15日の正午に「重大放送」があると事前の報道で知る。当日、被災を免れた、祖父の古いラジオを玄関において放送を待った。

 近所の人達も、ラジオの周りを囲む様にして放送を待っていた。 やがて時がきて 雑音とともに、少し甲高いように聞こえる天皇陛下の声を聞いた。

<戦争は終わった>と思った。今でもその時の玉音放送で聞いた言葉の一節が頭に残って消えることがない。 「,,,,,堪え難きを堪え、忍びがたきを忍び 、、、、」と。

 放送のあと、母親は何故か涙をながしていた、何故泣いたのか、確かめる術もないが、聞いて見たい思いは今もある。

 わたしは、心中喜んでいた、もう空襲が無いんだ! ゆっくり寝られる、その事がうれしかった。大人には別の心配があるようで、 女の人は ,山の奥のほうへ隠れ住むのが良いのでは、と 真剣な会話を耳にした。

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 今にして思うことは、もっと真実に向きあって,本当の事を語るべきだと、敗戦に違いないのに、「休戦」と言ったり「終戦」と言ったり、「占領軍」なのに、「進駐軍」と言わせたり。「東京裁判」を,戦勝国である「連合国」の一方的裁判というなら、日本国民自身が、この戦争の責任者が誰であったかを検証すべきだと思う。

 戦争を体験した、政治家がめっきり少なくなり、次第に雲行きが怪しくなりつつある。「集団的自衛権」然り。

 NHK会長の発言を聞いていると,まさに,時の政権である軍部に翻弄された、戦時中の「日本放送協会」に逆戻りしたかと思った。

 二度と「戦争」が出来る国にしてはいけないと思う。今生きている子供達と,これから生まれであろう子供達のためにも。

 

                                                      (木漏れ日さん)

 

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